多摩平の開拓者・作家伊藤整(1)
戦前、未開の荒野だった多摩平地域に果敢に入植したのは、日本文学界の大御所作家の伊藤整でした。伊藤整は、小樽出身の小説家ですが、憲法を学ぶと必ず教わる「チャタレイ裁判」の被告としても有名でした。このチャタレイ裁判の間、伊藤整は、豊田の自宅と東京地方裁判所との間を頻繁に行き来していたのです。
チャタレイ裁判について
伊藤整は、作家ゆえ膨大な日記を残していました。また息子の滋・礼の両氏も親譲りの筆まめのため、日野での暮らしぶりが丹念に記録されています。何回かに分けて、その生活の様子を紹介したいと思います。
まず、伊藤整は、小樽商大を卒業後地元で教鞭をとりながら、作家活動を開始しました。その後、上京し一橋大学を卒業後、作家と海外文学の翻訳を続けた。風刺に富んだ小説や「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳などで作家としての地位を確立していきました。作家、英語講師、出版社の部長職と多忙な日々を東京で過ごしていましたが、その頃太平洋戦争が始まり、東京から疎開することを決意するのでありました。
その疎開地が、日野市多摩平だったのです。
太平洋戦争で日本軍の戦況が悪く、沖縄戦で敗退が決まると、次は東京が空襲に遭うと伊藤は覚悟しました。昭和20(1945)年、ついに東京都心が空襲を受け、当時住んでいた世田谷からも下町や中島飛行機武蔵野工場などが燃えていく様を見て、伊藤整は北海道への疎開を決意しました。
以前暮らしていた北海道ではありましたが、状況が落ち着けば東京に戻って仕事を再開したい、だが以前の地に戻ることは危ないと感じた伊藤整は、八王子の知人を介して、自給自足生活ができる土地を探し求めたのでした。そこで引き当たったのが、日野市多摩平の日野六小の斜向かいにあたる1,000坪ほどの物件でした。