日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

多摩平の開拓者・作家伊藤整(2)

戦後の物資難で、住宅資材はどこにもありませんでしたが、その点を見越した伊藤整は、北海道で住宅用の木材を手ぬかりなく調達していました。そして、国鉄関係者とのコネを使って、北海道発八王子行きの木材運搬専用貨物列車を設えたのです。こうして、日野の家の資材は、問題なく集まったのでした。

 

一方、戦後まもなく重機などはないため、土地の開墾は自力で行う必要がありました。伊藤整は、息子の滋・礼とともに、中央線に乗って豊田まで向かうのでした。中野から国立までは普通の電車でしたが、国立以西は貨物車に乗り換えとなりました。30分おきに電車がやってくるという乗り継ぎの悪さでしま。電車の雰囲気だけとっても、田舎に向かうような気持ちにさせられたようでありました。

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昭和22年の中央線の時刻表によると、立川〜浅川間は、20分おきの運転間隔でした

 

伊藤親子は、豊田駅に着くと南口の改札を出て、八王子側の踏切を渡ります。そこから、現自動車教習所の横の坂道を上がり、富士電機日野工場沿いに旭が丘方面に進みます。工場沿いにしばらく歩くと、次に多摩平方面への小道を北に進んでいき、約30分で自宅に到着します。現在は、道路が整備されており、駅からは10分強で到着できる場所なので、ずいぶんと遠回りをさせられていたのです。戦後まもなくは、まだ電気もありません。辺り一面は、雑木林です。家を建てるため、木の切り株を取り除いて整地にすることから始めるという大変さだったそうです。

 

そして、大工に建ててもらったのがロッジのような赤い三角屋根の家でした。現在、碁盤状に区画整理されている方向の斜めに構えた家でありました。私自身が、子供の頃にその家を見たのは、今から50年近く前になるわけですが、当時からその区画だけが高原風ないでたちで、家を多数の木々が取り囲むことから、昔から多摩平の地にいた大地主の風格を漂わせていました。もっとも、私が生まれて間もなくに、すでに伊藤整は亡くなっており、聞くところによると弟の礼さんが住んでいたとのことですが、人気を感じない実にひっそりした邸宅でありました。現在は、取り壊されて駐車場となっています。

 

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伊藤整が多摩平に家を建てた頃は、近隣には数軒しか住宅がありませんでした。互いの家は、雑木林に阻まれて見通すことはできませんでした。

 

雑木林の中で、ひときわ大きかったのが、かつての岩通寮付近にあったクロマツであったそうです。地形上、日野六小のあたりは凹みがあり、泉塚から西方向に地下水が流れているようで、このクロマツはその水分で育っていたものと思われます。また、近くには昭和12(1938)年にできた六桜社(現在のコニカミノルタ)工場、鶏舎や豚舎があったそうです。

 

また、更にその東側には、宮内省帝室林野局林業試験場「日野苗圃」という御料林がありました。

 

このような森林の中で、伊藤整は自らヤギを飼い、畑を耕して自給自足を可能にすべく、多摩平に広大な土地を買ったのでした。電気がない不便で野趣あふれる生活でしたが、戦後の混乱を何とか切り抜けることに成功したほか、昭和30年代に多摩平団地の開発が始まり、豊田の土地を売り渡す中で多額の売却益を手にしたと思われます。その後、伊藤家は杉並区久我山に引っ越していきました。