日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

多摩平団地と多摩平自治会の話

子どもの頃、多摩平団地内で「多摩平自治会ニュース」なるビラを時折目にしました。そもそも自治会というものは、近隣との地縁協力や親交が目的ですが、改めて思うと、多摩平自治会は政治運動結社でした。

 

そもそも、多摩平自治会の発足のきっかけは、下水道使用料の負担についてでした。団地の住民が支払う共益費に下水道料金が含まれていると解した住民側と、下水道料金は共益費とは別に支払うとする日野市側で対立したのです。

 

そして、下水道料金問題にとどまらず、市立幼稚園の設置要求、牛乳値上げ反対、家賃値上げ反対、国鉄運賃値上げ反対などを自治会活動として要求し続けました。幼稚園建設問題では、当時の古屋市長がやり玉にあげられていました。また、ベトナム戦争に関する時事講演会や反戦写真展も日野社会教育センターなどで開かれていました。「多摩平平和の会」「新日本婦人の会多摩平班」などの派生組織もあったと聞いています。

 

ただ、その一方で、このような革新系の行動に同調できず、自治会活動に無関心な人も少なからずいましたし、不快に思っていた人もいました。

 

昭和40年代初頭は、「黒い霧事件」と称する自民党の不祥事が相次いで、保守政治への批判が高まっていた時代でした。また、大学闘争や、国鉄ゼネストなどが各地で行われたような時代だったので、自治会の活動も同様に政治的色彩を帯びることが許容されていました。このような時代の風潮も相まって、多摩平団地内では革新系候補への投票率が高まり、東京都知事選では美濃部さんが、また日野市長選では森田さんが当選する支えとなったわけです。

 

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昭和42年4月の東京都知事選挙。名古屋などでも革新系が勝っていた時期。

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昭和48年4月の日野市長選挙。当時は、翌日開票でした。


やがて、社会運動が下火になる昭和の終わりには、この自治会の活動も同様に縮小していきました。平成に入り、多摩平団地がなくなり、住民は大半が入れ替わりました。革新勢力は、当時に比べてすっかり力を弱めましたが、今もなお、日野市では支持が強いといわれている所以でもあります。