日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

日野市ごみ処理施設の道路建設問題について

東京都日野市のごみ処理施設の専用道路の建設が都市計画法などに違反しているという住民訴訟が、5年前に提起された。今年9月9日に、最高裁判所は住民側の訴えを認めて、日野市長に建設費用の全額2億5000万円を賠償する判決が確定した。

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大坪冬彦日野市長は、判決を受け、自らの判断に問題があったことを原告側に謝罪した。そして、原告側も問題の解決に歩み寄りを示したことなどを受けて、10月28日の日野市議会において、全会一致で大坪市長に対する債権放棄案を可決した。大坪市長と、萩原副市長が、この責任を取る形で給料の自主返納を発表したのであった。

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市長の謝罪に加えて、裁判の争点となった建設費用は、国分寺市および小金井市とともに使用するごみ処理施設のための費用であり、公共性や必要性があると認められたこと、また、市長が不正に利益を得るような行為ではないことや、道路の違法性が実際の公園の利用に甚大な影響を及ぼしていないことなどから、全会一致の債権放棄案が認められたのだと察する。その一方で、最高裁判所が下した司法判断を、行政が反故にするということは、司法権の軽視につながり、民主主義の基盤である三権分立を脅かす危険な行為であると言える。そこで、なぜこの道路建設が問題になったのか、また日野市の対応は問題がなかったかなどを改めて整理したく、この原稿を書いた。

1.ごみ処理施設建設計画
ごみ処理施設は「クリーンセンター」と称する、多摩川と浅川を挟む位置にある。昭和62年に建設された。建設後20年を経過したところで、設備の老朽化が進んだことから、日野市は平成21年3月に「日野市ごみ処理施設建設計画」を策定し、平成31年度中に新しいごみ処理施設を単独で稼働する計画を立てた。

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そのような状況の中、平成24年4月、小金井市国分寺市から日野市の建て替え計画に合わせ、可燃ごみを一緒に処理させて欲しい旨の申し出があった。両市からの申し出を受け、日野市では財政面、環境面から単独処理を行うか、あるいは広域処理を行うかについて検討に入った。

折しも、この時期に日野市長選挙が行われ、平成25年4月に現職の大坪市長が誕生した。前任の馬場弘融市長のもとでは、日野市単独の小規模なごみ処理施設での検討が進んでいたので、方針が変わったということになる。ちょうど、市長の交替時期に重なっているため、大坪市長就任のタイミングでの方針変更にも見えるが、平成24年11月の市議会で方針変更が打ち出されているので、正しくは馬場市長の下での変更決定ということになる。
新ごみ処理施設は、当初計画では平成31年稼働開始で進んでいた。この建設計画と、途中から加わったごみ処理施設広域化の折り合いをつけることが、大坪新市長の政治課題となったわけである。そして、この件を性急に進めたことが、今回の問題の端緒となった。

 

2.問題の違法ごみ専用路

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今回の裁判で違法建設と認定された「ごみ専用路」は、北川原公園の敷地内にある。
そもそも、この北川原公園は、ごみ処理問題の環境保全を目的に造られたものであった。日野市石田周辺は、河川に挟まれて住宅が密集していないことから、ごみや下水の処理施設が集まりやすい地域であった。ごみ問題が日本全体の社会問題となっていた昭和50年代において、石田の人々は、ごみ処理による悪臭や環境悪化の問題に直面していたが、更に下水道の処理場建設案も浮上したことが加わり、近隣住民の被害感や不満感は相当に高まっていた。そこで、同じ市民の間に、加害・被害の格差を作ってはならないという、当時の森田喜美男市長の方針に基づいて、約9.6ヘクタールの敷地にテニスコート、野球場、広場を含む市内最大級の公園を建設する計画がこのときに出来上がった。つまり、この北川原公園には、市内の「迷惑施設」が集中する地元住民へのお詫びあるいは感謝のしるしとして造られた経緯がある。公園の整備に費やした費用は、のべ約18億円(うち国庫補助が約4億円)に及んでいる。

突如のごみ処理施設建設方針の変更は、少なからず地元住民の強い反発を招いた。にもかかわらず、日野市は、方針変更の発表からわずか4か月後の平成25年3月13日、地元住民や市民の反対の声を押し切る形で、小金井市国分寺市との間で、クリーンセンター建設の覚書を締結したのである(注:大坪市長の当選前)
小金井市国分寺市からのごみ収集車をクリーンセンターへ搬入するためには、北川原公園に接する石田大橋を経由しなければならない。しかし、石田大橋から入ってくるごみ収集車を、多摩川沿いの道路に通すためには、どうしても北川原公園予定地内に道路を通さなければならなかった。この道路の建設許可を取ることは、手続き上容易ではない。そこで、日野市は、当初、ごみ収集車が北川原公園内を通行するための道路を、「兼用工作物」として作ることを検討したのである。
「兼用工作物」とは、公園と道路とが双方の機能を果たすものをいう。この道路が兼用工作物と認められれば、道路ではなく公園としての管理が可能となるため、法律上日野市が運用できることになる。
しかし、平成27年3月に、東京都都市整備局・建設局に相談した結果、東京都は「この道路はもっぱら公園利用者のための園路とは言い難く、公園施設とすることは認められない」という見解を示した。兼用工作物としての建設は不可能となった。
 次に、9か月後の同年12月、日野市は、道路の法的位置づけを見直し、日野市立公園条例に準じて、園路でもなければ認定市道でもない、ごみ収集車だけが通行する「クリーンセンター専用路」を作るとし、それを「30年間の暫定利用と」すると解釈を打ち立てて、道路の建設を進めていったのであった。

3.問題とされた法律違反とは何だったのか

今回の裁判において、クリーンセンター専用路の建設は、いくつもの法律違反があることが指摘された。日野市は、日野市立公園条例に準じてクリーンセンター専用路を作るので、何ら法的問題はないと主張してきたのだが、それが認められることはなかった。

まず、そもそも日野市が主張する日野市立公園条例に違反していると判断されている。仮に、日野市が主張したとおり「条例に準じて」建設が可能であれば、その上位法にある都市公園法においても、同様に「準じて」建設が可能でなければなければならない。ところが、前述のとおり、この道路は、都市公園法が定めた「兼用工作物」には該当しない旨、東京都都市整備局・建設局が見解を出している。この時点で、都市計画法では認められておらず、日野市の条例に解釈を変えてみせたところで、小手先を攻める戦法であり、大筋で認められるわけがない。
次に、都市公園法に従って、このクリーンセンター専用路を建設する場合は、地下に作るか又は高架としなければそもそも認められないという。無許可で地上に道路を造った時点で、都市公園法にも違反していることになる。

さらに、公園の整備は、あらかじめ決められた都市計画に沿って進めなければならない。この道路の建設によって、公園の面積が減ってしまうことはあってはならず、もし道路の建設を優先する場合は、都市計画の変更手続きを取らねばならない。日野市は、クリーンセンター専用路を設けるための都市計画変更の手続を一切とろうとしなかったので、都市計画法に明らかに反していることになる。
そして、北川原公園用地にごみ収集車を通行させるクリーンセンター専用路を作ることは、公園予定地の用途を妨げるばかりか、公園の整備そのものが止まってしまうという事態を招くことは明らかであることなどから、地方自治法にも違反している。
最後に、北川原公園については、これまでに国と都から2億8400万円の補助金が投入されてきた。補助金事業は、申請した計画通りに事業が進まないと、補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律にも違反するのである。

ことほどさように多くの違法性を指摘される事業を強行突破した結果、住民団体からの提訴を受けて、日野市は負け戦を戦う羽目に陥ったのである。

 

4.責任は誰にあるのか

なぜ、日野市は明らかに違法なクリーンセンター専用路を作る方針に立ち至ってしまったのだろうか。

(1)日野市長

誤った判断の最終責任者は、日野市長である。事実経緯を見る限りは、現職の大坪市長はもとより、最初に方針を転換した馬場前市長にも責任の一端があるように思う。ここで疑問に思うのが、なぜ大坪市長が違法性を認識しながら事業を進めてしまったのかという点である。
wikipediaによると、大坪市長は一橋大学を卒業後に、日野市役所職員としてキャリアを積んだエリート行政官である。豊富な行政経験があることから、違法性のある事業を安易に進める人とは考えられない。条例の解釈で逃げ切れると指南した者がいたのだろうか。あるいは、市長に当選して、強い政治的リーダーシップを発揮せねばと、余計な奮発でもしたのだろうか。そして、事業を急いで進めなければならない隠れた理由があったのだろうか。

大坪市長に課された2億5000万円の賠償金は、個人で払える額ではない。金銭を私的に着服した事件ではないため、日野市が巨額の賠償金を債権放棄するという判断は、必然の流れではあった。ただ、自らの給料を返上したものの、やはり責任の取り方は金銭ではなく、行政官としてのけじめとして進退で済ませてほしかった。おそらく、進退に話が及ばなかったのは、今年2月に選挙が行われたばかりであることや、後任に現状勢力をまとめうるだけの候補が見当たらないなどという理由ではないかと思われる。また、大坪氏は、仮に辞任をしても、年齢や自身の能力を踏まえれば、一度けじめをつけた後に、都議選や国会議員など別の舞台での再起を目指せるのではないかとも思えるだけに、まことに残念な身の処し方であった。

 

(2)日野市議会

日野市議会においても、東京都から違法性の高い事業であるという指摘がある点を認識しながら、建設計画に賛成していると思われる。よって、市長とともに責任を負うべき立場にある。また、市長の債権放棄を可決したということは、市長が負った責任を市が背負うことになる。司法判断をなきものとする行政の責任は極めて重いものだ。市議会が謝罪したという話を聞いたことがないが、この問題は最終責任者の市長だけが謝れば済む問題なのだろうか。市議会には、自らも責任を負う当事者であるという自覚があるのだろうかと首を傾げたくなるのである。
また、この問題を法廷に引っ張り出した共産党や原告住民団体の活躍は称賛に値するが、市長敗訴後の謝罪を受けて、和解に応じて、債権放棄に全会一致で賛成したことが、理解に苦しむのである。そもそも、訴訟を起こす意味があったのかと問題が原点回帰してしまうし、仮に採決で反対しても、賛成多数で債権放棄は可決されるのだから、自身の姿勢を貫徹してもよかったのではないか。和解にむけての何らかの政治的思惑があったのかもしれないが、外野の人間は何もうかがい知れず、ただ置いてきぼりとなるのである。

 

(3)国分寺市小金井市

そもそも、ごみ処理施設建設の方針を変えたのは、国分寺市小金井市との共同事業として進めることに、利点を感じたからである。複数の市町村が共同で使用する施設を建設する場合、広域連合という形態で事業を進めることが多いが、今回は何らかの理由があって、3市の共同事業という形で進んでいった。そして、道路建設の許可で日野市がつまづいてしまったわけである。日野市の手続きにミスがあったのだが、これは日野市単独の問題なのであろうか。日野市が違法性を認識しながら事業を進めたおかげで、国分寺市小金井市のごみ処理車両が多摩川を越えられるのであるから、日野市に対して何らかの配慮があってよいのではないか。当事者の市長や議員のもとには、さまざまな接触があるのだろうが、一般市民の視線からは冷たい無反応のように見受けられるのである。

5.おわりに

日野市は、敗訴を受けて違法性の解消につとめるとコメントした。違法性を解消するには、都市計画を変更して道路建設の認可を取るか、道路を空中もしくは地下に移設しなければならない。そのいずれも、現実的には行われなず、結局は30年間違法状態が放置のままになるのではないか。
前述のとおり、北川原公園は約18億円を投じた公共事業である。それだけの税金を投じてきた公園の利用が、道路によって妨げられるとしたら大きな損害である。人気の少ない公園の面積が多少減っても、生活には影響がないかもしれない。しかし、法律の運用に例外を作ると、後から後から例外の事例が沸いてくるものだ。債権放棄とネット検索すれば、日野市の事件が先頭に並んでいる。日野市がやっているのだから、うちの場合も債権放棄すれば大丈夫といった、安易な風潮にならないように願っている。

 

日野2・2・6号線

ファナックそばの「平山通り」沿いに、新たにコンビニエンスストアができるそうである。この「平山通り」は、町田から八王子を結ぶ全長約16キロの都道で、現在は都道155号線と呼ばれている。中央線をまたぐ「豊田陸橋」が、昭和50年前後に完成する前は、豊田駅から石川入口を結ぶ道であり、行政上の呼び名は「日野2・2・6号線」であった。明治期の地図には、この道路とほぼ同じであろうと思われる道が既に存在しており、古道である。そして、この道の横には、八王子競馬場と富士電機日野工場が作られていったのである。

 

昭和30年以前は、多摩平は相変わらず開発前であり、「日野2・2・6号線」の北側にはほとんど道らしき道はなかった。富士電機日野工場の敷地の西側に細い道があり、かつて多摩平3丁目に住まいを構えていた作家の伊藤整は、豊田駅からずいぶんと迂回する道のりをたどって、駅と自宅を往復していたという。

 

かつて西長沼と称されていた旭が丘地区の開発は、昭和40年台中ごろから進んでいった。その当時は、今回建設されるコンビニエンスストアファナックの工場あたりは、一帯が畑や空き地であった。

 

童話作家の巽聖歌は、旭が丘6丁目あたりの「日野2・2・6号線」沿いに住んでいた。駅からずいぶん離れており、人気の少ない当時、往復の道のりは不気味でなかったかと案じてしまう。

 

日野と八王子の境にある「あかはけ橋」の下には、八高線が通っている。八王子から北八王子の方向に伸びる上り坂を、赤いディーゼルカーが走っていく様子を時折見かけた。30分に1本間隔の運転だったので、見かけたときは運の良さを感じたものであった。

UR集合住宅歴史館に行ってきました

年末に、北八王子にあるUR集合住宅歴史館を訪れました。

 

この展示館では、昭和30年代に相次いで建てられた公団住宅の蓮根団地・晴海高層アパート・多摩平団地のほか、建築史的に価値の高い同潤会アパートの住戸等を移築復元し、集合住宅技術の変遷をたどる展示を行っています。

年代を追って見学するので、初めに見るのは、昭和2年に竣工された同潤会代官山アパートです。独身用住戸、世帯用住戸ともに、個人の荷物の多い現代人には手狭な間取りですが、家賃は決して安くはなく、それなりの所得がないと入居できないようです。また、冷蔵庫がないのが特に印象的でした。

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続いて見たのが、昭和32年に竣工した東京都板橋区に建てられた中層集合住宅・蓮根団地です。間取りは、2DKで決して広くありませんが、代官山同様それなりの家賃です。食寝分離でダイニングキッチンが日本の住宅に初めて登場しました。

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その次の展示が、私の訪問の主目的である、多摩平団地テラスハウスです。ブロック造2階建てで、昭和33年に竣工されました。
テラスハウスは、各住戸が専用庭を持つ長屋建ての低層集合住宅になっています。中に入ると、幼い頃、友達の家に遊びに行った記憶が沸々とよみがえってきます。日本住宅公団では、多摩平だけでなく松戸の常盤平などでも、庭を介した独特の住まい方を提供しました。庶民は、長屋の安普請に住むものという観念からの解放や、欧米並みの生活の豊かさを追求する当時の取り組みは、何とも素晴らしいものでした。

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また、多摩平では、構造上簡易なブロック造を始め、RC造の壁式やラーメン構造、プレキャスト工法のさきがけとなるTilt-Up工法などの模索が行われました。
サンウェーブ製のステンレス流し台なども登場しました。この流し台の完成秘話は、かつて放送された「プロジェクトX・挑戦者たち」でも取り上げられました。

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多摩平の見学で、主目的は達成しましたが、展示は続き、次は晴海高層アパートに移ります。昭和 32 年入居が始まった晴海団地の中にある総戸数 168 戸、鉄骨鉄筋コンクリート造 10 階建の集合住宅です。高層から見る街の風景写真を見ると、ぐっと現代に近づいたような気分になります。間取りも多摩平より広く、またその分家賃が高くなっています。

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当時のエレベータが何とも独特で、現在のような各階止まりができませんでした。3,6、9階に止まった後、上下の階には階段でいくという仕掛けになっていました。そのため、各居室への導線はまるで迷路のようになっており、専用の案内人がいたとそうです。何とも不便さはありますが、その分人々の雇用があって、生活が保障されていた時代だったと感じます。

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最後に、玄関ドア、インターホン、風呂、トイレなどの住宅設備の変遷の展示を見学しました。玄関ドアなどは、昔のものは重厚な素材でしたが、塗装はぼろぼろに剥げていました。

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集合住宅歴史館は、令和5年春に北区赤羽台に移転予定です。北八王子の集合住宅歴史館は、3月31日で閉館となります。コロナ禍にもかかわらず、見学を受け入れてもらい、感謝の1日でした。

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AIとツイッター

昨日は、町の本屋が消えていく話題について考えました。社会は常に変化しているので、現在の仕事や活動も、やがて将来は姿形を変えていくでしょう。

 

今後、仕事や活動が変わっていく大きな要素はAIの発達です。2010年ごろから、AIにはディープラーニング機能が加わり、コンピュータ自身による深層学習が可能になりました。新型コロナウイルスのワクチン開発が驚くべきスピードで進んだのは、AIの進化によるところが大きいことは、周知の事実です。

 

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さらに、人工知能の性能は2045年ごろに人類の知能を超える、と予測されています。人工知能を進化させるのは、人間ではなく人工知能自身となり、知能面では人間を超越したものとなる可能性が高まります。コンピュータが持たぬ人間の意思や感情なども学習が深まり、個人の行動や思考の予測までがコンピュータで実現できる時代になりそうです。

 

私が、当ツイッターで日野市の話題をつぶやいていますが、この程度のデータ収集、分析、そして投稿作業などは、AIがいとも簡単に作業してしまうことでしょう。投稿内容を最終的に確認して、必要に応じて修正するくらいしか、やることがなくなるかもしれません。

 

もっとも、小説などの創作活動はAIには限界があります。たとえ、新選組土方歳三に関する膨大なデータを集めて事実経緯を分析しても、そこから「燃えよ剣」は生まれてくることはありません。さらに、司馬遼太郎の知性を学習したAIが必要となります。もし、粗削りでもAIによってそれなりの著作物が出来上がるのであれば、それはそれで面白い時代に遭遇できることになります。

 

AIを巧みに駆使し、人知を超えた作品を作り上げる才能が、次の時代を引っ張っていくのでしょうね。

啓文堂書店・豊田店の閉店

久々のブログ更新となります。

 

先日、ついに啓文堂書店・豊田店の閉店が発表されました。店の歴史は、ほぼファミーユ京王の歴史でもあるので、昭和55年(1980年)10月から、約40年にわたり営業を続けたことになります。

 

鉄生堂、三成堂などが消えた中、豊田駅北口の書店は、イオンモール未来屋書店のみになります。実にさみしい限りではありますが、書籍離れ、パソコンやスマホの普及などの社会の変化に、書店業がついていけなくなっている以上、何ともしようがないというところであります。

 

ファミーユ京王も啓文堂もともに京王グループの企業なので、書店事業に家賃の負担はあまりなかったものといえます。だからこそ、たとえ赤字経営でも40年間続けられるのですが、コロナ禍で鉄道事業の業績が落ち込む中で、不動産事業のテコ入れが求められたのでしょう。

 

気になるのは、次に何の店が入るのかです。京王グループには、カレーショップC&Cやそば屋などのレストラン事業があるので、飲食店が入る可能性があります。ファミーユ京王が経つ前は、京王観光、京王タクシー、そば屋などがありました。もし、そば屋が来るとしたら、半世紀ぶりの復活ということになります。

 

また、テナント収入を確保するのであれば、京王グループ以外の店舗が入ることになります。想像もつきませんので、何か情報をお持ちの方がいたら教えていただきたいところです。

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日野市立南平小学校の「君が代伴奏許否事件」

東京パラリンピックが後半戦に入ってきました。日本勢の結果は思った以上に好調で、メダル授与のときには、国家「君が代」が流れる場面をよく目にします。先日終わった東京オリンピックでも、MISIAが歌った「君が代」が話題になりました。

 

一方で、国家「君が代」には、天皇崇拝の戦前の軍国主義教育を助長したとして、嫌悪感を持つ人がいます。

 

かつての日野市立南平小学校の音楽教諭は、「君が代」を認めぬ思想信条を持っており、勤務先の卒業式で伴奏することを拒否し、校長の職務上の命令に従わなかったことを理由に戒告処分を受けました。そこで、この教諭はこの命令は憲法19条に違反し,処分は違法であるなどとして,上記処分の取消しを求めた訴訟を起こしたのでした。

 

この事案は、「君が代伴奏許否訴訟」として最高裁判決が出たため、憲法を学ぶ者の多くが知るものですが、原告の名前が伏せられていることから、舞台が東京都日野市であることは知る者が少ないかもしれません。

判決は、原告敗訴でした。

判旨の理由は、以下のとおりでした。

  • 君が代」のピアノ伴奏をを拒否することは、歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求める職務命令が、直ちにその歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。
  • 君が代斉唱は、公立小学校における儀式的行事として広く行われ,南平小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際しては,音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命じていた。この伴奏は、特定の思想を持つことを強制したり、あるいは禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。
  • 学校教育法の規定によると、入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは、これらの規定の趣旨にかなうものであり,南平小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても,本件職務命令は,その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。

 

多数の最高裁裁判官の判断のとおりかと思いますが、唯一藤田宙靖裁判官が反対意見を出していました。その反対理由の骨子は、次のとおりです。

  • 参列者に一種の違和感を与えるかもしれないことは,想定できないではないが,ピアノ伴奏拒否が、思想・良心の直接的な表現であるとして位置付けられるとしたとき、このような「違和感」が,これを制約するのに充分な公共の福祉ないし公共の利益であるといえるか否かにある
  • 入学式におけるピアノ伴奏が,音楽担当の教諭の職務にとって少なくとも付随的な業務であることは否定できないにしても,他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かには、なお疑問が残るところであり(付随的な業務であるからこそ、本件の場合テープによる代替が可能であったのではないか)ともいえよう

 

つまり、ピアノを弾ける音楽教諭が演奏しない違和感はあるものの、テープによる代替演奏でも差し支えなかったのではないかというのです。

ここで、オリンピックやパラリンピックで耳にする「君が代」の演奏を聞いて思うのは、国内の一流の演奏家による高音質の録音であれば、生演奏に劣らぬ式典の品質を十分保てるということです。

教師が個人的な思想信条をぶつけることの是非は責められるべきものの、学校側もこの際は生演奏に拘らずテープ演奏に寛容であるべきではなかったかと、五輪のメダル授与シーンを見て改めて思うのでありました。

多摩平の古本屋を思い出しました

日野市では図書館のおかげで、私たちは本を買わずして読むことができ、今から思うと大変ありがたいものでした。それでも、著名な本、手元に置いておきたい本は買いたくなるものです。高名な作家や学者が、あふれんばかりの蔵書のある書斎で研究や執筆活動をしている様子を見ると、真似をして、無性に本が欲しくなることもありました。

 

かつて、豊田駅周辺には、あまり古本屋はありませんでした。平成初期に、多摩平名店街にあった「ラ・マンチャ」という喫茶店が、古本屋に業態を変換しました。本屋に変わったあとでも、落ち着いた空間でした。お気に入りの店でしたが、写真などの記録がなく、昔の記憶を思い出すだけでした。

 

先日、その「ラ・マンチャ」の写真を発見しました。場所は、イオンコート多摩平の森で開催している「多摩平写真日記」でした。後藤昭夫さんという方が、多摩平の風景を撮りだめていました。その中に「ラ・マンチャ」があったのです。

 

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ラ・マンチャ」では、当時話題になっていた作家の文庫本を買いましたが、あいにく内容は、深く記憶には残っておりません…

そして、この写真展には、高島屋ストアの軒先で時折開かれていた古本市の様子の写真がありました。この写真を見るまで、かつて古本市が開かれていたことをすっかり忘れていました。高島屋ストアでは、他にもいろいろな催事が行荒れていました。実に懐かしい風景に接することができました。