多摩平の古本屋を思い出しました
日野市では図書館のおかげで、私たちは本を買わずして読むことができ、今から思うと大変ありがたいものでした。それでも、著名な本、手元に置いておきたい本は買いたくなるものです。高名な作家や学者が、あふれんばかりの蔵書のある書斎で研究や執筆活動をしている様子を見ると、真似をして、無性に本が欲しくなることもありました。
かつて、豊田駅周辺には、あまり古本屋はありませんでした。平成初期に、多摩平名店街にあった「ラ・マンチャ」という喫茶店が、古本屋に業態を変換しました。本屋に変わったあとでも、落ち着いた空間でした。お気に入りの店でしたが、写真などの記録がなく、昔の記憶を思い返すだけでした。
先日、その「ラ・マンチャ」の写真を発見しました。場所は、イオンコート多摩平の森で開催している「多摩平写真日記」でした。後藤昭夫さんという方が、多摩平の風景を撮りだめていました。その中に「ラ・マンチャ」があったのです。
「ラ・マンチャ」では、当時話題になっていた作家の文庫本を買いましたが、あいにく内容は、深く記憶には残っておりません…
そして、この写真展には、高島屋ストアの軒先で時折開かれていた古本市の様子の写真がありました。この写真を見るまで、かつて古本市が開かれていたことをすっかり忘れていました。高島屋ストアでは、他にもいろいろな催事が行われていました。実に懐かしい風景に接することができました。
再掲・豊田駅前のお墓の話
「自分が住んでいるところ、行き来しているところが昔は何だったのか」ということには、常に関心があります。ちなみに、このブログを書いているのも、歴史的な事件の犯人らの最期となった場所です。近くの慰霊碑には、今も献花や焼香がささげられています。
前に、本ブログで豊田周辺のお墓の話をしましたが、「ここが昔は墓場だったのか!」と驚くことも多いので、改めて書き留めてみたいと思います。
<豊田駅北口周辺は、一帯が墓場だったのです>
豊田駅周辺の町村名は、以下のように変わりました。
明治22年から34年にかけて、桑田村で暮らす無縁の人々の墓が、ファミーユ京王からマクドナルド豊田店の坂下にかけて作られました。そして、墓と共にお地蔵様が立てられました。ハケ状の土地に立てられたことから、このお地蔵さまは「地蔵ぱけ」と呼ばれていました。
豊田駅開業後、しばらく北口の駅前は墓場のままでした。太平洋戦争後、多摩平の土地開発を進めるにあたり、さすがに駅前に墓場があってはまずいと、移転をしたのでした。
その移転先が、
- 現在の日野市営火葬場の隣地
- かつての日野市民病院の隣地(現在のコメダ珈琲店付近)
の2か所でした。このうち、市民病院の隣地については、「病院の隣が墓場では縁起が悪い」と、住民から反対運動が起きました。その結果、市民病院墓地は実現せず、東豊田の善生寺付近の共同墓地に移動することになったということです。
もっとも、住宅公団によって、市民病院隣地への換地処分が行われていることから、墓地が実際にあったかどうかは、確認がとれません。もし、当時のことをお分かりになる方がいましたら、お知らせください。
駅から離れた巧妙な位置にあった戸田書店
オリンピック、高校野球、コロナ禍と仕事が多忙となるイベントが相次いだため、ブログを書く時間がありませんでした。もっとも、日野市の話題や思い出に特化しているので、そうそう書くネタもありません(笑)
本屋の思い出を語ってきましたので、今回は旭が丘にあった戸田書店について取り上げます。
戸田書店は、静岡県を拠点とした書店で、全国に店舗を展開していました。その中で、駅から離れた日野市旭が丘に店を開きました。
本屋の向かい角には、セブンイレブンがありました。現在は、戸田書店の位置にこのセブンイレブンが移動しました。また、斜向かいには童謡「たき火」の作詞者・巽聖歌さんの自宅もありました。巽さんがお亡くなりになったすいぶん後に、戸田書店がやってきたわけで、特に両者に関係性はなかったものと思われます。
それでも、書店の入口奥の方には、結構な児童書の在庫がありました。近隣には、子どもが多数住んでいたので、それなりに売れていたと思います。
店舗はそれなりに広く、レジの正面以外は、立ち読みしやすいつくりでした。かしわや同様、雑誌も読みやすい位置に置かれていました。
また、鉄生堂や三成堂などには置いていない趣味の本なども多数ありました。映画や鉄道の本を数冊買いました。
自分の家から、自転車で戸田書店に向かい、その後にムラウチまで立ち寄って、レコードや家電を買いに行くという行動パターンが、いつしか出来上がっていました。
常盤平団地で昔を懐かしむ
千葉県松戸市の常盤平団地は、多摩平団地と同時期に建てられました。団地の雰囲気も似ていることから、両者は比較の対象になっていました。建物が老朽化したことから、多摩平は建て替え、常盤平は存続を選択しました。現存する常盤平団地によって、日野市多摩平の在りし日の風景に接することができます。
常盤平団地が存続となった理由は、住民の多くが高齢者で、環境になじんでしまったことや、建て替えのストレスや費用負担のおそれなどによるものでした。
昭和30年代以降に大勢の働き盛りの人が、この団地にやってきました。常盤平は、一気ににぎやかになりました。その当時の様子が、記録映画にも残っています。
当時の働き盛りの人たちは、全員が高齢者になりました。平成に入ると、団地内の一室で人知れず孤独死する高齢者が後を絶たなくなり、問題になりました、死後も、家賃が口座から自動的に引き落とされ、3年後に銀行預金が尽きたことによって、事態が明るみに出たというような事例もありました。
孤独死を防ぐため、老人が独りぼっちにならないよう、住民自治会がお互いの接点を持つなど、活動を活発に行っています。駅前にある自治会の掲示板には、様々なサークル活動や催しの案内が貼られていました。
一旦は存続を決めた常盤平団地ですが、現在も建て替えの議論は一部にあり、多摩平団地の現状を参考にして検討を重ねているという話も聞きました。
日野市から松戸市までは、少々距離がありますが、ちょっとした小旅行気分でおでかけするには、もってこいの場所です。多摩平団地を懐かしむ方は、ぜひ足を運んでみてください。
わが理想の本屋「かしわや」
「かしわや」書店は多摩平名店街の中にありました。もともとは、布団屋でしたが、途中で業態を変えました。小さな本屋でしたので、鉄生堂や三成堂ほどの売り上げはなかったと思いますが、利用者の側からすると実に都合のいい本屋でした。これまでに行ったことのある中で、利用しやすい理想的な本屋でした。
好きな理由をあげていきたいと思います。
■理由1 出入口がよく見える「鰻の寝床」であった
店舗は長方形で、出入口は1か所です。店内の通路から常に出入口の様子がうかがえます。つまり、立ち読み中でも横を気にしていれば、誰かが入ってきてもすぐに分かります。人の気配を感じたら、サッと読むのを止めることが可能です。
■理由2 客数が少ない
鉄生堂や三成堂とは異なり、駅前からは少し離れているため、客数が多くありませんでした。店内に一人しかいないようなとき、立ち読みには便利でした。
■理由3 レジの視線を感じにくい
小さな店なので、書棚とレジの距離は遠くないのですが、少し離れるだけで目線を感じなくなります。つまり、グラビア雑誌のようなものも、人目を気にせず読むことが可能です。このメリットに気づいていた同級生のおませな早熟男子は、エッチな雑誌をよく読みにきていました。
■理由4 医者から近かった
小学生の頃は、病弱でしょっちゅう風邪をひいて、学校を休んでいました。高熱でフラフラの状態なときに、富士マンション横のあづま医院に行っていました。診察室で待っている間、少し時間が経った週刊文春、週刊新潮、平凡パンチなどを手当たり次第に読み耽っていました。医院を出た後、最新号の続きを読みたくなって立ち寄るのに、もっとも便利でした。週刊誌を読むには、とても便利でした。
「かしわや」でもご多分にもれず、立ち読み専門でしたが、小学館の「GORO」などを数冊買いました。それらもネットオークションで処分してしまったので、もう手元にはありません…
後出しでも健闘していた三成堂書店
豊田駅前の書店の思い出を振り返っていますが、2回目は三成堂書店を取り上げます。三成堂は、戦後八王子で開業した老舗の本屋です。神田発祥の「三省堂書店」と間違える人も少なからずいたことと思います。
かつては、八王子や国分寺に書店を展開していましたが、現在は閉店しています。
豊田駅前店は、現在の三菱UFJ銀行のあたりにありました。三成堂は、鉄生堂よりも後の昭和50年ごろに営業を始めました。鰻の寝床のように奥行きが長い店舗で、2階建てでした。1階には雑誌や文芸書、2階には学習参考書、漫画、児童書などがありました。
本屋は、「鰻の寝床」状であると、予期せぬところから他の客が近寄る可能性が少ないため、立ち読みの際の安心感が高まります。ヌードグラビアがあるような本はもちろんですが、一般的な本でも、自分が何を目にしているか、他人からあまり見られたくないものです。駅前に近い店舗で、客数も多いため、安心感は決して高くない店でしたが、鰻の寝床の三成堂は、鉄生堂に比べて背後の危険を感じない店でした。
一階の奥にあった文庫本が、一番安心して見ることができました。一方、グラビア雑誌は、入口に近いため、見たくても見る度胸がありませんでした。
子どもの頃に、結局多く買わざるを得なくなる本は学習参考書です。三成堂は学習参考書の取り扱いが豊富で、八王子のくまざわ書店や立川のオリオン書房に行かずとも、ほとんど間に合いました。そのため、鉄生堂よりも三成堂のほうが本の購入金額は多かったと思います。
また、マンガも、鉄生堂で立ち読み後に三成堂で買うことがしばしばありました。三成堂は2階に人気の少ないレジがあったので、他の客と遭遇する気配が少なく、本を買いやすい環境にありました。
追記
三成堂で買った思い出の一冊は、五木寛之の「雨の日には車をみがいて」です。都会で働く売れっ子コピーライターがアルファロメオ・スパイダー、ベンツ、ポルシェなどの外車を乗り継ぎながら、数々の女性と恋愛するという話です。車と女性を愛する大人の男の物語に、五木寛之自身の華麗な作家生活を重ね合わせて読んでいました。当時、似たような話である田中康夫の「なんとなくクリスタル」も話題だったので、両者を対比しながら読み比べていました。
鉄生堂について記憶を掘り起こしてみた
前回、くまざわ書店について取り上げましたが、日野市内とりわけ豊田駅周辺においては、先行して出店した鉄生堂が地盤固めをしていたため、新規進出ができなかったと申し上げました。
鉄生堂は、豊田駅前と日野二中のそばに2つの店舗を構えて、多摩平地域をカバーしていました。地元住民には、もっとも馴染みのあった本屋でした。しかし、出版不況やバブル経済崩壊の悪しき流れには打ち勝てず、平成初期にともに閉店となってしまいました。
今となっては、当時の写真や記録が手元にはなく、もっぱら記憶だけしかありませんが、思い出をいくつか語ってみたいと思います。
■豊田駅前店
現在のマツモトキヨシの場所に、昭和40年代から平成初期まで約30年近くありました。ファミーユ京王の啓文堂ができる前は、一番大きな書店でした。振り返ると、なぜか立ち読みは豊田駅前店、実際に買うのは多摩平店か三成堂という行動パターンが多かったと思います。
■多摩平店
日野二中前の交差点の角に、昭和40年代から平成初期まで約30年近くありました。絣の着物を着たおばあさんが店番をしていました。マンガ売場が、レジの視界に入るところなので、長時間立ち読みすることはできませんでした。
■買った本の思い出
子供の頃で金を持っていないため、買う本にはおのずと限りがありました。
買った本は、
・学研のひみつシリーズ
・おばけのQ太郎
・ドカベン
・みゆき
・鉄道ファン
・伝記シリーズ
・各種学習参考書
・新潮、岩波、角川各種文庫
・地図
などでした。振り返ると、実際は立ち読みがほとんどであり、店にとっては大してありがたくない客でありました。
■立ち読みの効能について
本を読みたいということもさることながら、本屋にいると緊張感が走り、トイレに行きたくなる性分でした。そのため、自転車で本屋に行って、トイレに行きたくなったら急いで自宅に戻るなどということがしょっちゅうでした。トイレに行きたいがために、本屋に行っていたということもありました。
■衝撃的な思い出
まだインターネットなどない時代なので、書籍が最大の情報源でした。そして、雑誌や新刊書から、思いもよらぬ情報が舞い込んでくることがありました。
このうち、多摩平店で驚いたことが2回ありました。
1回目は、学生時代の先輩女子があられもない姿の写真集を出しました。卒業後に芸能人になり、有名になる前に別の芸名で出ていたのですが、顔を見て瞬時にその人と分かりました。
2回目は、学生時代の同級生が某米国金融機関から20億円の高額ヘッドハンティングをされました。もっとも、この話は文春ネタなので真偽は分かりませんが、今となっては紛れもない金持ちの一人です。