日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

なぜ、日野市にはくまざわ書店がないのか

くまざわ書店は、言わずと知れた八王子を本拠地とする全国規模の書店です。
創立は、明治29年です。グループ全体で「くまざわ書店」「いけだ書店」「ACADEMIA(アカデミア)」「球陽堂書房」「田園書房」などの店舗ブランドを持っています。2018年11月時点では北海道から沖縄県まで226店を出店しており、店舗数では日本全国で第3位です。

 

大型書店のくまざわ書店ですが、なぜか日野市にはなじみませんでした。

先日まで日野駅前にあった店は、2012年に開店した後、7年間の営業で幕を閉じてしまいました。それまでこの地では、長らく「ブックス伊藤」が営業していました。

 

豊田駅前においては、くまざわ書店は一度も進出しませんでした。

そこで、今更ながらですが、“くまざわ書店が日野市になじまなかった理由”を考えてみたいと思います。

 

■理由1 日野市内での図書館の利用が発達していたから

本ブログでも取り上げた通り、昭和40年以降の有山市長、前川図書館長らによる図書館事業の拡充によって、日野市内の貸出図書数は急激に増加しました。このことは、書籍の販売という点においてはマイナスに作用したはずであります。おそらく、日野市内で売上があったのは、図書館で貸出を受けられない雑誌や漫画の類で、一般書の売り上げは芳しくなかったものと推測されます。このような逆風下において、くまざわ書店はあえて日野市内での挑戦を避けたのではないかと思います。

 

■理由2 地元ライバル店が強力だったから

くまざわ書店の前に、他のライバル店が先行進出したり、強力な地元密着店が存在していました。豊田駅前には、鉄生堂、三成堂、また布団屋から業態変更したかしわやなどが根付いたため、新たに進出しがたい状況でした。

また、学校での教材販売などで定位置を占めた黒田書店や、本の配達サービスが好評だったブックス伊藤の競合店の存在も、進出を阻む要素でありました。

 

■理由3 啓文堂の存在

啓文堂は、京王電鉄グループが運営する書店事業です。京王電鉄が所有する土地で営業するのですから、店舗の賃料などにおいて、くまざわ書店よりも有利に戦うことが可能です。豊田駅高幡不動駅にある京王グループのビル内で営業する啓文堂には、賃料を払わないと進出できないくまざわ書店は、初めから勝負になりません。

 

もっとも、はなから日野市への展開など頭になかったかもしれませんが。

帝人中央研究所爆破事件

帝人中央研究所爆破事件は、昭和49年(1974)年11月25日に東京都日野市で発生した、東アジア反日武装戦線による爆弾テロ事件です。

f:id:qsk7m:20210727105233j:plain

三菱重工爆破事件

連続企業爆破事件の一つで、「狼」「大地の牙」「さそり」の3つの実行グループによって行われました。全9件の中、帝人事件は「狼」が引き起こした3番目の爆破事件です。

 

f:id:qsk7m:20210727105429j:plain

帝人中央研究所爆破事件、死傷者なしのため扱いが小さい

 

 

引き起こした9つの事件一覧

  1. 昭和49(1974)年8月30日 三菱重工爆破事件
    「狼」班。8名が死亡、385人が重軽傷。
  2. 10月14日  三井物産爆破事件
    「大地の牙」班。17人が重軽傷。
  3. 11月25日  帝人中央研究所爆破事件
    「狼」班。
  4. 12月10日  大成建設爆破事件
    「大地の牙」班。9人が重軽傷。
  5. 12月23日  鹿島建設爆破事件
    「さそり」班。
  6. 昭和50(1975)年2月28日 間組爆破事件
    三班合同。5人が負傷。
  7. 4月19日  オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件
    「大地の牙」班。
  8. 4月28日  間組京成江戸川作業所爆破事件
    「さそり」班。1人が重傷。
  9. 5月4日  間組京成江戸川橋鉄橋工事現場爆破事件
    「さそり」班。

 

5月19日に主要メンバーが逮捕されました。

f:id:qsk7m:20210727105603j:plain

7名逮捕の1面記事

 

このうち、帝人爆破事件を起こした「狼」グループは、大道寺將司、片岡利明、大道寺あや子、佐々木規夫の4名です。

多数の死傷者を出した三菱重工爆破事件の実行犯であることから、大道寺將司と片岡利明には死刑判決が下りました。

大道寺は、執行されることなく病死しました。また、片岡は未執行で収監中です。
一方、大道寺あや子と佐々木規夫は、後に日本赤軍が起こした2件のテロ脅迫事件(クアラルンプール事件・ダッカ日航機ハイジャック事件)の際に、日本赤軍側の要求を呑んだ日本政府による超法規的措置として出獄し、その後国際指名手配されています。

大道寺將司と片岡利明の死刑が執行されないのは、大道寺あや子と佐々木規夫の裁判が終了していないためと言われています。

 

■中央研究所が狙われた理由と事件の経緯

 

ところで、なぜ旭が丘の帝人中央研究所が狙われたのでしょうか。

そもそも、帝人株式会社は、韓国に石油コンビナートを建設するなど海外進出を積極的に進めていたことで、これを阻止して打撃を与えるために、攻撃対象になりました。

多数を殺傷するテロ目的であれば、人の多い本社を狙うはずです。最初の三菱重工事件で、警察が大規模捜査を行っていたため、帝人本社を狙いにいくと捕まってしまうおそれを感じ、人気のない旭が丘の研究所をターゲットに変更したためと思われます。

 

現場の下見などの調査と全員の協議を経て、

  • 11月20日 爆弾の仕掛け役を大道寺と同片岡が、見張りを大道寺あや子と佐々木が担当することを決定
  • 11月24日 午後7時25分ころ、大道寺あや子と佐々木が研究所の塀の外で見張りを開始、
    約2リットルの消火器の容器に、塩素酸ナトリウム約60パーセント・砂糖約30パーセント・硫黄約10パーセントの割合で混合した爆薬約1.5キログラムを詰め、これにトラベルウオツチ・乾電池・手製雷管等からなる起爆装置を接続させた。
    翌25日午前3時に爆発するように設定した時限式手製爆弾一個を、中和槽操作盤室内に装置して立ち去った
  • 11月25日 午前3時10分に爆発

 

被害が少なかったため、事件の記憶は薄れました。三菱重工事件と同一犯人が起こしたことも、あまり知られてはいないかもしれません。

人生フルーツと多摩平団地 建築家・津端修一

4年前の2016年、映画「人生フルーツ」が公開されました。多摩平団地を建築した津端修一夫妻を描いた内容です。

 

life-is-fruity.com

 

映画のあらすじは、かつて日本住宅公団のエースだった津端修一は、阿佐ヶ谷住宅多摩平団地などの都市計画に携わってきました。1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したニュータウンを計画しました。しかし、経済優先の時代はそれを許さず、結局完成したのは、理想とはほど遠い無機質な大規模団地でした。修一は、それまでの仕事から距離を置き、自ら手がけた高蔵寺ニュータウンに土地を買い、家を建て、雑木林を育てはじめましたーー。それから50年、ふたりはコツコツ、ゆっくりと時をためてきました。そして、90歳になった修一に新たな仕事の依頼がやってくる、という内容です。

 

多摩平団地は、津端の理想から程遠いものだったのでしょうか。調べてみました。

 

【理想】

津端は、地域に武蔵野の大地と森を取り戻し、住み手に土地の記憶として伝えることを考えました。

また、南に見える野猿峠のある街並みを、入居者に見えるようにすることを考えました。

 

【現実】

津端が多摩平のプロジェクトに参加した時は、すでに区割りができた状態で、昔の面影はなくなっていました。

また、野猿峠を見渡すこともできませんでした。

 

結果としては、これら2つは、思い通りに成功しませんでした。多摩平教会や泉塚近くなど、ところどころにケヤキイチョウ、針葉樹の森が残る程度でした。

 

【理想】

多摩平団地では、低層テラスハウスを導入しました。住戸の間隔をなるべくとって、木を植えるのが目的でした。
多摩平4丁目あたりの森、水道事務所、日野2中あたりの住空間をつなぐための「グリーンベルト」を作ろうとしました。

 

【現実】

テラスハウスの設計は、実現しました。

しかし、幹線道路沿いは、計画戸数を確保する必要が生じ、テラスハウスではなく中層住宅を並べました。

「グリーンベルト」と明らかに分かるものではないものの、5小、水道事務所、2中のあたりに道が存在しています。道幅の広い並木道のように、はっきりした特徴を取れたらよかったのでしょう。

津端氏いわく「アイデアだけで語って、世の中を渡っていくのはダメである。僕らがある程度の評価を得ているのも、計画する、自分で街をつくる、実験居住してみる、いろんなものを試してみる。そういう形でやっているからだと思う」

多摩平には実際に住みませんでしたが、名古屋の高蔵寺での生活の実践は、住むことの意義や理想を語りかけます。人生フルーツは、そんな映画でした。

 

日野の図書館(4) 公共図書館の本尊・日野市立中央図書館の完成

昭和40年から分館を次々と建設する中、本館の中央図書館完成には、約8年の歳月を要しました。先進的な日野市の図書館サービスを象徴する本尊として、建設当時より全国的な注目を集めていました。

 

前川館長は、「中央図書館設計の基本方針」として、次の5つを掲げました。

  1. あたらしい公共図書館建築の道標となる図書館
  2. 親しみやすく入りやすい図書館
  3. 利用しやすく、働きやすい図書館
  4. 図書館の発展、利用の変化に対応できる図書館
  5. 歳月を経るごと美しくなる図書館

設計を担当したのは、当時東京経済大学図書館の設計などによって評価を高めていた鬼頭梓でした。鬼頭は、落ち着いた雰囲気の建物となるよう、外観はレンガ作りで北欧的なたたずまいとしました。図書館の敷地は八幡神社の境内でもあることから、神社の趣きとの調和も重要な建築の要素でした。後の公共図書館建築に多大な影響を与える作品となり、建築学会賞を受賞しました。

 

また、日本におけるモダン・ムーブメントの建築197選にも選ばれました。

http://www.fujiko-hp.co.jp/fujiko-cms-new/wp-content/uploads/2016/07/doc16070401.pdf

 

日野市立中央図書館の大きな特徴は、貸出をすることが本位となった作りである点にあります。開架の図書数は約8万5千冊、児童書は約1万5千冊を用意しました。

図書館の入口が前の道路に広く面していて、どこからも入りやすい工夫がされています。道路の前には広い窓があり、図書館の中の様子が外からよく分かります。また、自転車も停めやすいよう導線の配慮があります。

f:id:qsk7m:20210718014222j:plain

広い入口

1階は、児童室と開架です。児童室は、入口右横に設けられ、開架は正面から奥に伸びる位置取りになっています。両方の部屋を分けないことで、子どもが親とはぐれにくくするようになっています。

また、1階には閲覧室がありません。開架の両脇にある椅子かソファに腰掛ける必要があります。時として席が埋まってしまうと、開架で立ち読みを強いられ、長居できずに引き上げることになります。

 

2階は、レファレンスコーナーと郷土資料、そして事務室があります。レファレンスコーナーは全部で20席あります。高校生の頃は、夏休みや冬休みのたびに開館から閉館まで全ての20席に順に座って本を読んでいました。中央図書館に入りびたりの生活でした。

郷土資料は、ここか市政図書室にしか置いていないものが多く、日野市の独自ネタを探すには貴重な情報コーナーです。

 

地下にも書庫があるそうですが、いまだに立ち入ったことはありません。

 

細かい点で運用当初と配置などが変わった箇所があり、前川の方針が現実に合わなかった点の修正もちらほら見受けられます。

 

50年の歳月が経ち、さすがに建物内部のあちこちに疲れがありますが、日野市の誇る建築物として、今後も使い続けられていくことでしょう。

 

 

日野の図書館(3)分館の原点・日野市立多摩平児童図書館

日野市立図書館の分館の1つ、多摩平児童図書館は、昭和41(1966)年に始まりました。

日野市の図書館は、本館と分館で構成することになっています。時系列上、先に分館ができました。多摩平児童図書館は、分館第1号となります。

  • 本館 中央図書館(昭和48(1973)年)
  • 分館 ①多摩平児童図書館、②高幡図書館(昭和41(1966)年)、③福祉センター図書館(昭和42(1967)年)、④社会教育センター図書館(昭和44(1969)年)、⑤平山児童図書館(昭和46(1971)年)、⑥百草台児童図書館(昭和47(1972)年)、⑦市政図書室(昭和52(1977)年)

なお、詳細の歴史は、日野市立図書館HPにあります。

www.lib.city.hino.lg.jp

 

さらにひまわり号も運行しています。

 

www.lib.city.hino.lg.jp

 

 

最初の児童図書館は、電車の廃車両を利用したものでした。現在の多摩平図書館の敷地内、イオンモールに近い側にありました。

電車図書館では狭小のため、5年後に木造平屋建て(105.63㎡)の図書館が建設されました。

f:id:qsk7m:20210716144824j:plain

多摩平児童図書館の平面図

電車図書館になじんてきた子どもや親たちが、新しい子どもの図書館を建てるために、小遣いを貯めて市に寄贈してできあがったそうです。

この図書館を設計した佐藤仁は、「これこそ公共図書館建築の原点」と絶賛しました。

建物は、上から見ると三角形にできており、「お話」「母親」「幼児」「小学生」という4つのコーナーがありました。それまでの図書館建築では、用途ごとに小部屋に区切る体裁が主流でしたが、開放感を重視したため、コーナー区切りという考え方を採ったそうです。その後、多摩平児童図書館の建築スタイルを模したものが多数登場し、日本の図書館はコーナー式が増えたそうです。

このような図書館があるのは当たり前のように感じて暮らしていましたが、当時の日本では先進的な存在であり、市政によって手厚いサービスを受けていたことを、大人になって改めて実感する次第です。

日野の図書館(2) 進撃の巨人たる日野市立図書館

有山・前川のコンビによって、日野市立図書館は「ひまわり号」のみならず、日本の図書館関係者が驚くほどのサービスを展開していきます。

 

有山が日野市長になる前後の主な出来事について、時系列に並べてみます。

 

  • 昭和40年6月20日 図書館設置条例を公布
  • 昭和40年7月 前川が図書館長に就任

日野市立図書館例規集等|日野市立図書館 (hino.lg.jp)

昭和40年の条例及び運営規則の主な骨子は、以下のとおりです。

  1. 日野市立図書館は、本、分館によって構成される

  2.  サービス水準は、図書館法の施行規則を下回らない

  3.  図書館長は経験豊かな専門職であるべき

  4.  個人への貸出に徹する

  5. レファレンスサービスを進める(利用者の求めに応じて、図書館員が必要な情報を提供する)

  6. 利用対象は、幼児からとする

  7. 登録票の工夫は簡便化する

  8. 貸出方式はブラウン式(貸出券・ブックカード・返却期限票の組み合わせによって貸出記録を作る方式)

  9. 貸出は1人4冊まで、児童は2冊まで。貸出期間は2週間。

https://www.lib.city.hino.lg.jp/library/gyoumu-houkoku/s40-s41Rental1.pdf

同様の趣旨が、日野市立図書館・貸出の方針として、まとめられました。

 

  • 昭和40年8月27日 有山が市長に当選

当時、自民党の不祥事が相次ぎ、衆議院は「黒い霧解散」騒動が起きました。この波紋は、東京都議会まで及び、当時の日野市長だった古谷太郎は、都議会議員に転身することになったのです。そこで、空席となった日野市長の選挙が行われ、有山が当選するのです。

 

  • 昭和40年9月21日 図書館サービス開始、ひまわり号運用開始

図書館充実に対する新市長の思いは、予算に如実に表れました。日野市の図書費は、昭和41年度に880万円 、昭和42年度には1050万円を計上しました。この額は、当時のほとんどの県立図書館をしのいでいたレベルでした。

 

  • 昭和41年6月電車による多摩平児童図書館、高幡図書館開館

denshatoshokan-kaikanshiki19660824.jpg (1272×410) (hino.lg.jp)

多摩平児童図書館で、やなせたかし氏の記念講演

 

takahata1967s.jpg (1133×747) (hino.lg.jp)

高幡図書館完成時

 

  • 昭和42年7月福祉センター図書館開館

fukushi1969.jpg (965×628) (hino.lg.jp)

図書館内部の様子

 

これらの取り組みの結果、昭和41年度の時点で貸出冊数が20万冊を超して、全国の公共図書館のトップに躍り出ました。

 

日野市立図書館の試みは、全国の図書館界の人々に多くの教訓をもたらしました。

  • 貸出に徹すれば、市民の利用はどんどん伸びる
  • 市民を信用すれば、市民も図書館を信用する
  • 図書館は、建物ではなく人であり、資料である

日野市立図書館は、進撃の巨人となって時代の先頭に立ち、戦い続けていくのでした。

 

日野の図書館(1)上司有山・部下前川

日野市の図書館事業は、前川恒雄の尽力により発展したといわれています。前川が昨年亡くなった際、生前の業績が報道されました。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

この「ひまわり号」の事業は、当時日野市教育委員会の議長を務めていた有山崧(たかし)が、前川を日野市に招き、始めたことでした。

 

有山と前川は、そもそも日本図書館協会での上司と部下にあたる関係でした。

 

昭和25年に、戦後日本の図書館の発展を目的とした「図書館法」が制定されましたが、日本の公共図書館のサービスは思う通りには発展してはいきませんでした。

 

日本図書館協会は、その現状を打開するために、文部省の補助を得て、委員会を設けて調査研究を行う事にしました。この調査を指示したのは、当時事務局長を務めていたる有山でした。そして、有山は、事務局の前川をその作業のまとめ役に任命したのでした。

 

有山・前川のコンビは、ここから始まったのです。

 

そして、日本図書館協会は「中小都市における公共図書館の運営」というレポート(略して「中小レポート」)をとりまとめました。この報告書は、図書館の活動の基軸は中小の図書館が担うものであるとして、日本の図書館界に大きな転換を迫る内容でした。

 

この中小レポートでは、「公共の図書館の本質的な機能は、住民の資料要求を増大させることが目的である。また、自発的に来館しない大衆の手元まで本を接近させることが大切である」と指摘しています。つまり、図書館は利用者がやってくるのを待つのではなく、積極的に出かけていって利用を発掘しなければならない、そしてそのためには地域全体の対するサービスもが必要であると強調しているのです。

 

もっとも、中小レポートの発表後、すぐに図書館運営が改善されたというわけではなく、しばらくの期間停滞がありました。この停滞を打ち破ったのが、日野市の取り組みでありました。

 

有山は、父が元日野町長で、新選組関係者との関わりがあったほどの日野の名家で生まれ育った人でした。日本図書館協会を離れた有山は、次に日野市教育委員会に活躍の舞台と移しました。

 

有山は、中小レポートの具体的実践を日野市内で進めるために、今度は前川を日野市に呼んで、様々な施策を任せるのです。このコンビが、「ひまわり号」を生み出し、日野市内の図書館の貸出冊数は爆発的に増加しました。

 

mainichi.jp

 

こうして、かつてまとめた中小レポート理論の正しさが日野市で証明され、日野市の図書館活動が全国的に名を轟かせることとなったのです。振り返ると、行政官が自らの理想に向かい、華々しい業績を収めることのできた良き時代であったのだと思います。