日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

八王子競馬(5) 新競馬場の建設と予想屋


第一回東京競馬が開催される前の昭和22(1947)年秋、東京都は新競馬場建設の基本構想を取りまとめていました。東京都議会でも同時に議論を重ねていました。その結果、大井、月島、羽田、玉川、駒沢、三軒茶屋の6か所が候補地となり、この中から最終的に大井が移転先に決まりました。新競馬場の建設を東京都が直接行うか、または施設管理会社を設立して行うかで議論が分かれましたが、結局後者に落ち着きました。そして昭和24(1949)年に、東京都競馬株式会社が設立され、大井競馬場の建設が進められたのです。

 

大井競馬場は昭和25年5月2日に開幕しました。1日の入場人員が11,000人、売上高は14,000,000円、八王子競馬の約6倍の規模でした。

 

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大井競馬場のメインスタンド

 

昭和23(1948)年、東京都では競馬が6回行われました。そのうちの4回が大井で、残りの2回が八王子でした。

 

八王子競馬には、かつて予想屋がいました。競馬場が八王子から大井に移る時、この予想屋の取り扱いについての議論がおきました。取り締まるか、それとも主催者下に置いておいて管理するかで見解が分かれました。最終的には、ファンが定着している仕事なので、主催者が管理するという結論に達しました。そこで、予想屋を公認制度にする動きがありました。試験を行ったところ、70名の受験者が集まった。筆記試験や面接を経て、合計33人が予想屋として購入された、購入された予想屋東京都競馬株式会社から屋台が貸し付けられて、場所を指定して営業が認められた。予想屋の公認試験はこの時1度きりで、このうち大半が今でもなお予想業者を営業している。

 

 

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大井競馬場予想屋


大井競馬場の好調な出だしのかたわらで、八王子競馬場は衰退の一途をたどりましたた。そして、昭和24(1949)年12月28日に八王子競馬はついに終了しました。競馬場は木造施設だったため、使われなくなったあとは、施設の腐朽荒廃が一気に進みました。

八王子市からは「競馬の再開その他利用の意向のない場合は、市営住宅地として払い下げてほしい」との陳情が出されました。一方、東京都競馬株式会社は、馬の調教場としての利用を求めました。そして、協議の結果、競馬場を残すと言う結論に至りました。

 

競馬場を残すに至った理由は、東京都側の心配によるものでした。つまり、競馬法によって区域内に2か所の競馬場を持つことが認められているにもかかわらず、八王子競馬場を廃止した場合、開催権の放棄と受け取られるのではないかということだったのです。また、将来、新たな競馬場建設の問題が起こることも予想されたため、当面は競馬場としての形態を止めたまま残すことを望んだのです。

 

しかし、そのための経費の問題は浮かび上がりました。昭和25(1950)年の臨時出納検査でもこのことが指摘されており、その効率的な利用を早急に考えなければなりませんでした。そこで、競馬の解散権を持つ東京都、八王子市、東京都町村競馬事務組合、それに新たに加わった特別区競馬組合が協議した結果、大井競馬の馬質向上、および購入馬の汎用調教を目的とした牧場として発足させることとしたのです。その頃には特別区競馬組合が当たることになった。また厩舎、馬場、その他付属施設は昭和26(1951)年10月、東京都競馬株式会社に委託を管理し、土地の使用料、管理費を会社側の負担とすることで東京都財政の軽減を図りました。さらに、八王子市に対しては競馬場の形態に影響及ぼさない範囲で、一部老朽設備の取り壊しを条件に無償譲渡することにしたのです。こうして、八王子競馬場は、八王子牧場として新たなスタートを切ることになったのでした。