日野市多摩平8丁目のブログ

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八王子競馬(3)ヤミ競馬の発展そして終焉へ

戦後のヤミ競馬時代に、八王子競馬場は日本初のフォーカス馬券を発売しました。競馬は6枠制で行われていました。この枠順の決定は、何ともいかがわしいものでした。まず、主催者側が強いと思われる馬を初めに5頭選びます。それらを1枠から5枠に割り当てるのです。そして、残りの全ての出走馬は、たとえ何頭いようとも、すべて6枠に指定されるのです。

 

このやり方で枠番連勝単式の馬券を発売すると、組み合わせは、全部で31通りになります。1から5の組み合わせならば堅い配当となりますが、低人気の6枠が絡めば一気に超高配当となります。戦後の混乱期には馬が少なく、どの競馬場も出走馬を集めることが大変でした。6頭立ての競馬で単勝のみだと6種類の馬券しか発売できませんが、フォーカスにすると一気に種類が増えるのです。何とか売り上げを増やしたいという主催者側の苦肉の策から生まれた馬券でした。

 

ヤミ競馬は土地の権力者や馬主、競馬関係者によって行われていました。戦後、これらの代わりに馬匹連合会や馬匹組合が主催する「馬連競馬」の形に運営方法が移行していきました。しかし、この「馬連競馬」というものも、地域の「ボス」に支配されているという不透明性において、それ以前のヤミ競馬とは本質は何ら変わりませんでした。八王子競馬は、全国各地の競馬場とは多少の差こそあれ、実態は地元のボスらによって支配されていたことは紛れもない事実でありました。八王子のボスは、「八王子の三派」と呼ばれる3人衆で、彼らの意向に沿わない限り、競馬は開催できないとさえ言われていたほどの強烈な存在だったといいます。

 

昭和21(1946)年に地方競馬法が公布されると、「馬連競馬」主催のもと、戦後初の正規の「多摩八王子競馬」が開催されました。昭和22年には4開催24日間が行われ、入場人員は122,743人、売得金は1億9254万円に上りました。売得金は、当時日本一でした。

 

その後、新競馬法の制定に伴い、馬匹組合連合会は解散し、一切を都道府県が引き継ぎました。次には、「都営競馬」での開催が求められました。こうして、競馬に健全性が求められるようになり、「八王子の三派」らの勢力の剥ぎ落としが喫緊の課題になりました。それでも、裏社会を牛耳っている、いわゆる怖い相手ですから、説得工作には相応の手腕が求められました。記録によると、都議会議員数名が束になり、「八王子の三派」ら20余名を温泉旅館に接待し、公正な競馬運営の協力を要請したという記録もありました。

 

八王子競馬は、表向きは健全化の道を歩み始めますが、皮肉にも終焉への道を突き進んでしまうのでした。