日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

八王子競馬(2)高倉町時代

横山上町の競馬場の移転先候補には、横山村船田、元八王子村横川、小宮村北大谷、小宮村西中野字甲の原の4か所が挙がりました。この中から、元の競馬場に近い甲の原にいったん移転先が決まりました。ところが、地元の農地の小作人から反対運動が起こり、補償金をめぐって紛糾しました。反対運動は収まることはなく、結局、新たな候補地を探すこととなり、最終的に小宮村粟須(現在の八王子市高倉町)に落ち着きました。敷地は、八王子と日野にまたがり、正門から観覧席は八王子側、コースの大半は日野側になりました。昭和9(1934)年に完成した新競馬場は、総面積約80,000坪、1周1600メートル、コース幅30メートルという、現在の競馬場に匹敵する大きさでした。昭和10(1935)年、春と秋に8日間の競馬が初めて新競馬場で行われました。その際の入場人員は334,929人、売上高は1,177,814円となり、それまでの記録を大幅に更新しました。「多摩八王子競馬会」は、この移転前後から「多摩八王子競馬倶楽部」に改称し、昭和13(1938)年には競馬の開催権が「東京府馬匹畜産組合連合会」に移管されました。

 

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国土地理院:空中写真94C7-C15-231 *1944年撮影

高倉町の八王子競馬は、開幕当初は大いに賑わいました。羽田競馬と並んで、東京の地方競馬を背負って立つ存在となりました。

 

その羽田競馬は、東京で最初の地方競馬です。昭和2(1926)年7月、鎌田区羽田町入船(現在の大田区東糀谷、羽田中学校周辺)に6万坪の土地を借り入れて開催されました。その後、羽田に変わる競馬場の建設が検討され、いったん江東区に移りましたが、人の入りが悪く赤字経営となってしまい、再び羽田に戻ることになりました。羽田競馬の再開にあたっては、大規模な増築が行われ、総面積100,000坪、1周1600メートルの大競馬場が作られました。やがて日中戦争の勃発によって昭和12(1937)年で廃止となり、跡地の一部は高射砲の陣地に転用となりました。

 

羽田競馬は、このように戦況の影響で昭和12(1937)年限りで廃止となりましたが、八王子では引き続き競馬が開催されました。戦中には、地方競馬は「鍛錬馬競走」(軍の馬として、能力の維持と資質の向上を図る目的の競走)に名称を変えて行われました。そして、戦後間もない時期には、いわゆる「ヤミ競馬」が盛んに行われました。「ヤミ競馬」とは、土地の権力者や馬主、競馬関係者が勝手に作ったルールで開催した競馬のことです。ヤミ競馬では、不正行為が相次いで発生し、各地で混乱が生じました。八王子競馬においても、ヤミ競馬が行われました。その一方で、八王子競馬では、「フォーカス」という新方式の馬券を販売開始しました。出走馬を1枠から6枠までに分けて、このうち1、2着馬の順番を着順通りに当てると言う枠番号連勝単式です。この馬券は、競馬ファンの圧倒的な支持を受け、八王子競馬の売り上げは大きく上がりました。そして、この販売方式は全国に波及することとなったのです。