日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

八王子競馬(1)中野上町時代

八王子競馬は、競馬場の跡に住む人たちには、あまりなじみがない存在です。

昭和の初期において、八王子には以下の2か所に競馬場がありました。

 

■八王子市中野上町(八王子二中周辺)

■八王子市高倉町・日野市旭が丘(首都大、八王子東高、日野四中周辺)

 

競馬場があったのが昭和初期から昭和30年の頃なので、その当時は競馬場の近隣に住む者が少なく、記憶がある人のほとんどが亡くなっています。また、多摩平地区のように、競馬場の廃止後と入れ替わる形で都市開発が始まった地域については、住民には競馬場の記憶があまりありません。

さらに、八王子競馬の運営にもさまざまな問題があったせいか、日野市や八王子市は競馬場の存在や歴史を積極的に周知していないように見受けられます。

 

もっとも、街の中を見ると、今でもなお競馬場があったことを示すものがいくつか点在しています。

 

昭和2(1927)年に、地方競馬に関する法令である「地方競馬規則」が公布された当初は、東京府内に認められた競馬場の数は1か所でした。

当時の東京には9つの馬匹畜産組合が存在し、お互いが競馬開催権をめぐって争奪戦を起こすようになっていました。この問題を円満に解決し、競馬事業の発展を目指した東京府馬匹畜産連合会は、農林省に対し規則を改正し、東京府内に新たに3か所の競馬場建設の許可を上申しました。

また、組合を<荏原・豊玉・東京>、<江東・足立・北豊島>、<八王子・西多摩・南多摩>の3つの組織に分割しました。

 

しかし、翌年の昭和3(1928)年に改正された地方競馬規則においては、東京府内に設置を認められた競馬場の数は、2か所に留まってしまったのです。当初想定の3か所とは異なる結果となったことを組合が農林省に不服を申し立て、もう1か所についても新設を認められたのです。

こうして、八王子でも競馬が開催できることになったのです。

 

この年の11月17日、秋川街道沿いの小宮村西中野(現在の八王子市中野上町)付近に最初の八王子競馬場が新設されました。競馬の主催団体は八王子市、南多摩郡西多摩郡の各競馬会によって組織された「多摩八王子競馬会」でした。

 

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国土地理院:空中写真63-C5-99 *1941年撮影

 

競馬場の規模は1周1,000メートル、コース幅は16メートルでした。第1回開催の出走馬は179頭で入場人員は32,466人、売上高は158,165円でした。

この年の開催日数は、4日間でしたが、翌年からは春秋に3日ずつ6日間の開催になりました。競馬は年を追うごとに盛んになり、昭和8(1933)年には出走馬316頭、入場人員188,286人、売上高688,366円になりました。開始当初より規模が膨れ上がると、この施設では手狭となり、移転が検討されることになったのです。

 

(追加)馬券について

この当時の馬券は、「優勝馬投票券付入場券」と呼ばれていました。地方競馬には、まだ正式な馬券がありませんでした。入場券の購入は、1人1枚でした。この入場券には1枚から12枚までの投票券が付いており、その枚数によって入場券の値段が異なりました。投票できるのは、1競争につき1枚1円と決められていました。八王子競馬発足の当時は単勝のみで、配当は最高10倍まででした。ただし、投票した馬が1着になると現金が払い戻されるのではなく、相当分の商品券がもらえるという仕組みでした。昭和6(1931)年からは複勝式も発売されるようになりました。当時の記録によると売り上げの9割が複勝式、1割が単勝式でした。