日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

八王子競馬(4) 衰退の理由

昭和23(1948)年11月4日、新競馬法の公布のもと、東京都営の主催による八王子競馬が初めて行われました。

 

しかし、当初の勢いは続かず、八王子競馬は入場人員、売上高ともに減少していきました。その衰退の理由は、一にも二にも「利便性の悪さ」でした。

 

都心から八王子競馬に来るには、中央線で立川乗り換えで豊田駅までやってきて、そこから徒歩30分かかります。メインスタンドは、八高線北八王子駅が最寄り駅ですが、列車の本数が少なく、利用はかなり困難でした。競馬場に遊びに来ることは、一日仕事でした。

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メインスタンド。現在の高倉小学校付近。

 

当時の八王子競馬には、「雨でもやります明るい競馬」というキャッチフレーズがついていました。当時の地方競馬は、雨が降れば中止順延となっていました。しかし、雨が降ったからといって、一概に中止になるわけではありません。微妙な天気の時に、競馬は開催されるのかという、情報伝達が大きな問題でした。終戦後まもなくですから、テレビやラジオは発達していません。地理的悪条件も重なって、結果的に遠路はるばる来場したファンに迷惑をかけたり、開催に踏み切っても来場者が少なく売り上げがないというケースも少なからずありました。

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第三コーナーを回る馬群。旭が丘2丁目あたり。

 

しかし、八王子競馬場は地方競馬では全国有数の競馬場であり、そのスタンドは数少ない屋根付きでありました。つまり、雨が降っても競馬の開催には支障がないのです。そこで当時の主催者によって考案されたのがこのキャッチフレーズでした。雨でもやるのだから風でもやることにしていたため、当時はこんなこともありました。都営競馬の開催に携わっていた職員の回想録によると「風速20メートルの強風の中、競馬場の黒い土が、四六時中空に舞い上がって、日がささない暗い日に競馬をやらなければいけない日もあった。ある日の正午過ぎは、最も風が猛威を振った時で、その前後は、砂塵によって、視界もゼロと言う制約条件であった。まさに次のレースで向こう正面のスタートが切られようとしているその時、スタート付近の人も馬も姿がまったく見えず、その間に発走時刻はどんどん過ぎていく。どうしたことかと案じていると、突然ゴール寸前、十数メートルの砂塵の幕が異様に動くのである。その中から黒い影が沸いてきて、ほのかにそれとわかれば、いつの間にスタートしたのか、一団の馬群がゴールに向かって突進してくるのだ。慌てて審判員は着順判定をしたのであった」

 

大井競馬場に移転する直前でも雪の中の開催で、入場人365人、売得金600,000円程度の日もあったとのことです。財政再建を目的とした東京都営及び八王子競馬でしたが、結果的に存廃を論じるほどに売り上げが落ち込んでいったのでした。