日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

日野市営火葬場の話

明治期後半に豊田駅ができて、町発展の礎ができたのですが、多摩平は依然ほとんど人が住まない荒野でありました。この地に次にできたのが火葬場でした。

 

日野の火葬場は、大正 11 (1922) 年7月 3日に設置許可がされました。大正時代は、チフスコレラなどの伝染病が流行し、遺体から感染を引き起こす事例も多く、衛生上火葬場の整備が求められる状況でした。もともと日本では、遺体を焼く行為が敬遠されていましたが、石炭による高火力での設備が整い始めると、人里離れた地域に火葬場の建設が徐々に許容されていきました。日野の火葬場の建設当時、近くにあった集落は、甲州街道沿いの粟須新田(現在の高倉町)あたりだけでした。甲州街道から遠くなく、かつ近くないう場所だったという理由で、この地に作られたことになります。

 

日野市の資料によると、昭和 40 (1965)年1 月 11 日に、敷地は 1,608 ㎡に拡張されました。

火葬場隣接の墓地は、元は豊田駅前北口にあったものを、多摩平の開発にあわせて、元市立病院跡地とこの火葬場の隣地の2か所にそれぞれ移設しました。その後、元市立病院跡地分は病院の建設によって、東豊田に移転したそうです。

 

なお、現在の都市計画上では、多摩平は第一種低層住居専用地域にあたり、そもそも現在地に火葬場の建設は認められていません。また、仮に都市計画に沿った設備にする場合は、面積上では日野六小の敷地を取り潰して火葬場にしなければなりません。つまり、この火葬場は「不適格」の中、運営されているということになります。


将来、日野市の死亡者数は年間2,000程度と想定されています。日野市営火葬場の年間取扱件数が約600件、一方南多摩斎場が約800件であることから、近い将来火葬が滞ることが考えられます。現状の火葬場は手狭であり、老朽化したうえに住居とも密接であるために、これ以上の拡張はできず、程久保に移転の計画もあるようです。

 

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程久保の建設候補地