日野市多摩平8丁目のブログ

主に日野市多摩平およびその周辺の歴史や話題を語ります

2021-01-01から1年間の記事一覧

日野市の学校開放プールについて

梅雨入り後、蒸し暑い日々が続くと、プールが恋しくなります。 学校プールの授業も、本来ならば今ごろから始まるのでしょうが、コロナ禍でプール中止となり、がっかりしている子どもが多いことでしょう。一方で、水泳が苦手な子どもは、プールの授業がなくな…

多摩平団地の開発方針

戦後、東京の人口が増加していく中で、住宅の供給が喫緊の課題となりました。その中において、昭和30(1950)年に日本住宅公団が設立されました。その最初の事業として、多摩平団地の開発が始まりました。以下に住宅公団が作成した「富士が見える 多摩ニュータ…

多摩平の開拓者・作家伊藤整(2)

戦後の物資難で、住宅資材はどこにもありませんでしたが、その点を見越した伊藤整は、北海道で住宅用の木材を手ぬかりなく調達していました。そして、国鉄関係者とのコネを使って、北海道発八王子行きの木材運搬専用貨物列車を設えたのです。こうして、日野…

多摩平の開拓者・作家伊藤整(1)

戦前、未開の荒野だった多摩平地域に果敢に入植したのは、日本文学界の大御所作家の伊藤整でした。伊藤整は、小樽出身の小説家ですが、憲法を学ぶと必ず教わる「チャタレイ裁判」の被告としても有名でした。このチャタレイ裁判の間、伊藤整は、豊田の自宅と…

元は戦争疎開で作られた富士電機東京工場

豊田駅周辺の発展の歴史を順にたどると、豊田駅→安田善衛の別荘→火葬場ですが、次にできたのが、昭和18(1943)年の富士電機東京(日野)工場であります。富士電機は、大正11(1921)年に川崎で創業しました。富士電機の社名は、まず会社の母体となった「古河電…

日野市営火葬場の話

明治期後半に豊田駅ができて、町発展の礎ができたのですが、多摩平は依然ほとんど人が住まない荒野でありました。この地に次にできたのが火葬場でした。 日野の火葬場は、大正 11 (1922) 年7月 3日に設置許可がされました。大正時代は、チフスやコレラなどの…

多摩平にいた大富豪・安田善衛(やすだよしえ)について

大正時代の初期に、立正佼成会豊田教会の地に別荘を建てて移り住んだ安田善衛は、安田銀行、京都銀行、第三銀行などの取締役を務めるなど、安田財閥の一翼を担いました。全国所得番付でも上位に名を連ねた指折りの大金持ちでした。 この豊田教会の地のほか、…

すべては「豊田駅」から始まった

多摩平およびその周辺地域の発展の基礎は、何といっても「豊田駅」の存在であります。明治22(1889)年に甲武鉄道(今の中央線)の立川~八王子間が開設され、その後明治34(1901)年2月22日に、豊田駅は開業しました。それまでは、駅の南側の豊田村を中心に約…

はじめに

ツイッター「日野市多摩平大好き」と題して、約1年近くさまざまなことをつぶやいてまいりました。 その多くが、日野市多摩平及びその周辺地域の歴史です。多摩平周辺は、昭和30年すぎの多摩平団地の開発によって住宅地化されましたが、それまでは未開の荒野…